機材環境
macOS High Sierra 10.13.6
アプリケーション
Adobe CC 2019 InDesign Photoshop Illustrator
プロフィール
1961年、東京生まれ。
1980年、都立新宿高校卒業
1985年武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業。
木村デザイン事務所を経て、1990年独立。
雑誌を中心に、書籍、ポストカード、ポスター、
リーフレット等の印刷物を手がける。
広尾に事務所を借りて6年、
その後、神楽坂へ移って今に至る。
東京は、目黒の生まれです。車も入れないようなせせこましい路地裏と、目黒不動尊の境内を我がもの顔に駆け回る子供時代でした。当時読んだ少女漫画の影響で、5歳頃から「夢はファッションデザイナー」と広言するも、小5で必修科目になった家庭科で、自分が完璧なる裁縫音痴であることが判明、モードの方は諦めました。
小・中学校と地元の公立に通い、高校は、中学の陸上の練習で何度もグランドを借りた、都立駒場のハイカラな風情の校舎にあこがれ都立21群を選択。ただ当時は「学校群」制度で、群内の2〜3校は任意に振り分けられてしまうシステム。希望に反して、受験で訪れた折に「煤けてホコリっぽ〜い」印象の新宿高校の方へ。通い出すと存外に楽しく(但し、ホコリっぽいのは本当です。光化学スモッグ注意報など日常茶飯事でしたから)、標準服が指定されているだけで服装は自由、全体にアバウトで、キャバクラ、のぞき部屋、ストリップ劇場が立ち並ぶド繁華街を抜けて、紀伊国屋に参考書を買いに行く生活でした。
まわりが皆勉強する人ばかりで、少々がんばったくらいでは一向に目立たず、やはり得意分野で勝負するしかあるまい、と2年生の終わりに美術系統へ進路を決めます。どうしても仕事につなげたいが、教職に行く気のない自分は油彩・日本画はないな、とデザインを選択。3年の春から、お茶の水美術学校(美大の予備校です)へ通います。石膏デッサンはお約束ですが、その他、荒縄、一斗缶、果物など材質がバラバラなものを描く「静物デッサン」、極寒・酷暑・早春を15cm四方の3つの正方形に構成せよなどという「平面構成」、教室を
こんな、消去法の後ろ向きな選択ですから、当然どこかでつまづきます。美大2年の時に、どの課題も中途半端でうまくいかず、選択を間違えたと思い詰め学校へ行かなくなり、唐突にマンガの投稿や持ち込みを始め、バイトに精出す半年間。意気地無く、まわりから説得されて1年留年で大学へ逆戻りしますが、最後の2年間は面白かったです。
卒業後、広告系のデザイン事務所を経て、秋から木村デザイン事務所へ。木村裕治さんという、それは美しい誌面創りをする師匠の元で、ノウハウや誌面構成の面白さを叩き込まれた5年間でした。「エスクワイア日本版」立ち上げのときは、40歳前後の大人たちが、子どものようにワイワイ楽しそうに、明け方近くまで打ち合わせしているのが羨ましくて、いつか自分もあれをやりたいと思ったものでした。
「この方に師事したし!」というよりは、その前に入った事務所を移りたい一心で、教授の「人探してるOBがいるけど行く?」のお声掛かりに飛びついた次第。会う前に大慌てで、木村さんが手掛けた雑誌を本屋に探しに行くという脳天気ぶりにも関わらず、今に至るまで誌面創りを楽しいと思える基礎を刷り込んでもらえたのですから、感謝せねばいけません。
5年で「卒業」を決めましたが、独立する勇気がなかったので、不動産会社が興す出版事業へのお誘いに乗って契約社員に。時は1990年前後、世にバブル崩壊の序曲が響き始める折も折、出版事業どころか親会社本体が厳しい状況になり、出版部は1年で解散。独立する以外選択肢がなくなり、広尾に事務所を構えます。
1992〜2001年までの9年間は、朝日新聞社「アエラ」のデザインスタッフとして、週2日ほど築地にも通いました。デスク、記者、写真班、デザイナーがぐるりと集まっての打ち合わせや、膨大な数の写真を絞り込むことは、とても貴重な体験でした。ギャラをいただきながらDTPを覚えるという、ありがたいオマケも。
ただ、鋏とペーパーセメントの世界からパソコンに切り替わる1年間は、器材に馴染めず、正直、心を病みかけました。10歳下の若い仕事仲間は、すでに学校でパソコンを教わっている世代。10年間積み重ねてきた経験から、やっと何かを教えてあげられると思ったら、あべこべに操作を教えられる情けなさには涙が出ました。腕の良い写植屋さんに美しく仕上げてもらっていた文字組みも、自分でこなさねばならず、こんな仕事、もう辞めだ!とまで…。
辞めなくて良かったです。
1997年に、事務所を神楽坂へ。14年経ちました。忌み嫌ったMacは、7500から始まって、今回買い替えたiMacで5台目。紙媒体は厳しい状況ですが、続けられる限り、チミチミと続けたいものです。